- 江戸時代のはなし(5代将軍徳川綱吉の時代)
- 江戸幕府は私闘禁止(しとうきんし:領主や武士が独自の判断で武力を用いて争うことを禁止すること)
- 私闘禁止の原則と、武士の義理・復讐観との対立のはなし
登場人物
浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)
- あさのどの
- 播磨赤穂藩(兵庫県の一部)の藩主(外様大名)
- 1701年4月21日(新暦)、江戸城本丸「松の大廊下」において吉良上野介を斬りつけ、5代将軍徳川綱吉の命令により即日切腹となった
- 切腹場所:現在の港区新橋付近と伝えられる田村邸で切腹。享年35(数え年)
赤穂浪士(あこうろうし)
- 浅野殿が吉良殿を斬りつけた事で、浅野殿の家臣(かしん:家来)たちは浪人となり、47名が討ち入りに参加した
- リーダーは大石内蔵助(おおいしくらのすけ)
- 最年少は16歳の大石主税(おおいしちから:大石内蔵助の息子)
- 新暦1703年1月31日ごろの未明、現在の墨田区両国3丁目付近(本所松坂町の吉良邸)に押し入り、吉良上野介を討ち取った
- 1703年3月20日ごろ(新暦)4つの大名屋敷(細川・毛利・水野・松平の4家)にて46名が切腹した
- 残りの1名(寺坂吉右衛門)は、討ち入りのあと途中で一行と別れ、その後は赤穂藩関係者への連絡役などを務めたと伝えられている。公式に切腹は命じられず、その理由や経緯には諸説がある
吉良上野介(きら・こうずけのすけ)
- きらどの
- 1701年4月21日(新暦)、江戸城本丸「松の大廊下」において、浅野内匠頭に斬りつけられ負傷した
- 「礼儀作法の先生」のような立場のえらい人(高家:こうけ)
- 新暦1703年1月31日ごろの未明、現在の墨田区両国3丁目付近(本所松坂町の吉良邸)で、赤穂浪士に討ち取られた。享年62(数え年)
浅野内匠頭と吉良上野介との関係性
- 上司と部下ではない
- 友達でもない
- 仕事で関わった“立場の違う武士”
- 儀式指導という立場上、吉良が“指導役”という上下関係に近い状況ではあった
泉岳寺と赤穂浪士たちとの関係
- 浅野内匠頭と赤穂浪士たちの墓がある
- 赤穂浪士たちは吉良上野介の首をとったあと、その首を泉岳寺にある浅野内匠頭の墓前に捧げ、その後に自首をした
- 境内にある「血染めの梅」と「血染めの石」は、浅野内匠頭が切腹した時の血がかかったと伝えられているが、新橋から泉岳寺まで運ばれてきたという資料はない

